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【アラベスク】  第13章 夢と希望と未来



第1節 遠雷 [2]




 遠くの空が光った。それに触発されるかのように、今度は花瓶を投げつける。派手な音と共に水と花びらがぶちまけられる。程なくして慌しい足音。鍵の掛かるドアを激しく叩き、どうしたのかと問いかける使用人。華恩は応じない。
「こうなったのも、全部」
 無残に投げ出された百合の花びらをスリッパで踏みつけ、一点を凝視する。
「全部、あの男のせい」
 山脇瑠駆真。自分などよりも下賤で卑しい身分の女に傾倒した、許しがたい存在。
「この私を愚弄して、ただでは済みませんわよ」
 イライラと親指の爪を噛み締める。誤って噛み切った指先から血が滲む。
 その痛みに眉を潜め、だが視線は一点を睨みつけたまま、まるで取り憑かれたかのように低く繰り返す。
「ただでは済みませんわよ」
 その口元が薄くユルリと吊り上った。濃灰の空に稲光が走る。やがて雨が降る。





 明日は晴れだな。
 小童谷(ひじや)陽翔(はると)は夕焼けに頬杖をつきながらぼんやりと思った。
 雨は昼過ぎにはあがったが、なかなか空は晴れなかった。夏の夕立とは違う。漂う空気はヒンヤリと冷たい。雨が降るたび、冬が近づく。
 夕焼けが綺麗だと翌日は晴れだ。そう初子(はつこ)先生に教えてもらった。陽翔は、彼女の言う事なら何でも正しいと思っていた。
 今でも思っている。
 先生は俺に嘘はつかないし、俺に害となるような事も言わない。いつでも、俺の事を思ってくれている。
 夕日の中に、ぼんやりとその顔立ちが浮かぶ。子供相手にキビキビと授業をし、だが厳しいと言うワケではなかった。家へ帰りたくないとグズグズしていると、そっと教室に一人で残してくれる事もあった。
 あの教室から見る夕日も、綺麗だった。
 賃貸マンションの一室。自宅で英語教室を開いていた山脇初子は、すでにこの世にはいない。今は、実家のある九州の高千穂という場所に眠っている。
 陽翔は、墓を参った事はない。行く必要などないと思っている。
 だって、先生はココにいるんだから。
 目を閉じると鮮やかに浮かぶ。自分へ向けてくれた優しい笑顔。同じように教室へ通う生徒の中には彼女を怖いと言う者もいたが、陽翔にはそれが全然理解できなかった。
 先生は、俺をわかってくれている。先生だけが俺を理解してくれている。
 だが今、たとえば辛い事や楽しい事があったとしても、それを伝える術はない。
 アイツが、先生を殺したんだ。
 突然脳裏に浮かぶのは、黒々と波打つ艶やかな瞳。東洋と西洋を織り交ぜた、絶妙に美しく、甘く華やかで、でもどことなく憂いを帯びている少年。なにもかもが曖昧に漂い、その中性的な雰囲気が女子生徒にはウケている。
 曖昧? どれもこれも、ただ中途半端なだけじゃないか。
 陽翔は思わず拳で机を叩く。誰もいない教室に、それは無意味に響いて消える。
 人殺し。先生を殺しておいて、自分には関係がないというような顔で平然と生きている。生きて、この学校に通い、(あまつさ)へ恋などまでしている。
 あの少女の名前を出すと、瑠駆真は眼つきが変わる。まるで別人のように、気弱で卑屈に世の中へ背を向けていた頃の彼など嘘であるかのように、その恋心を露にする。
 あのような人間が情熱を傾けると、もはや手がつけられなくなる。何を言ってもやっても、その情熱を()ぐ事は容易ではない。
「容易ではない」
 呟き、陽翔は笑う。
 夕日に笑みが浮かぶ。ゾッとするほど艶やかな面持ち。
 そうだ、その恋心を殺ぐ事はできない。できはしないが―――
 遠くから小さな足音が聞こえてくる。廊下を歩く音に、陽翔はチラリと視線を向ける。
 別に俺はヤツの情熱を殺ぎたいなどとは思っていない。我侭な従姉妹の傲慢に付き合いたいとも思ってはいないさ。
 従姉妹の華恩から連絡があったのは二週間ほど前。その時も雨が降っていた。雷鳴音の響く中を、それ以上の怒声で陽翔に訴えた。恨みすら込められているのではないかと思えるようなその声を、陽翔は呆れながら聞いていた。俺に懇願してくるなんてずいぶんと落魄(おちぶ)れたものだね、なんて挑発してやったら、あっさり激高した。
 いや、実際、恨んでいるよな。恋の恨みは怖いものだ。逆恨みなんて、されるものじゃないね。
 せせら笑う。
 華恩の目的は迷惑だ。単なる腹いせだ。
 だが俺は違う。ただ、メチャクチャにしてやりたいだけ。
 足音が、陽翔のいる教室の前でピタリと止まった。人影が()りガラスに映る。女子生徒だ。
 その姿に、陽翔は瞳を閉じてフフッと笑う。
 最近はどこぞの王族だとかでやたらともて(はや)されているようだし、このくらいのお遊び、構わないよね?
 まるで微睡(まどろ)みから目覚めるようにトロンと目を開けると同時、教室の扉が開いて同級生が入ってきた。





 美鶴は、陽翔の姿に一瞬足を止めた。夕日を受けたその姿は真っ赤に染まり、だが鮮やかさとは対照的に、その存在は儚い。儚いと思えるほど景色に溶け込み、それが誰だかを理解するのに数秒かかった。
 まるで、教室の景色に陽翔の姿が幻影として映し出されているかのよう。実態のない、夕日に浮かび上がる紅い影法師のようなその存在に、美鶴はギョッと息を吸った。
 一方、扉を開けて一歩入ってきた同級生に、陽翔はニッコリと笑ってみせる。
「やぁ」
 まるで親しい友人のよう。実際、二人は同じクラスに在籍する同級生だ。このような懐っこい挨拶を交わす間柄であっても、別におかしくはない。
 だが、二人はそのような関係ではない。
 毎日の生活を同じ教室で過ごしてはいても、二人はほとんど会話を交わす事はない。美鶴はそもそも誰とも親しくはしていないし、陽翔の方は逆に男女を問わず誰とも親しく付き合う人柄なため、常にその周囲には生徒が集まる。このような対照的な二人を親しく結びつけるものはない。だから、同級生ではあっても、お互いがお互いを詳しく知っているというワケではない。少なくとも、美鶴はこの小童谷陽翔という同級生を、詳しくは知らない。
 一年間イギリスへ留学していて、秋に帰国してきた、本当は一年年上の生徒。唐渓高校の中でも家柄は良い方で、ゆえにいろいろな意味で人気も高い。
 その程度のものだ。
 美鶴は小さく瞬く。
 瑠駆真と、何かしら関係があるみたいだけれど。
 くまちゃんと呼ばれていた頃の瑠駆真を、陽翔は知っている。そして瑠駆真を人殺しと罵る。その現場を、美鶴は目撃している。正確にはその会話を盗み聞きした。それによって美鶴は自宅謹慎という状況に追い込まれてしまった。







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